2024年04月12日

認められないと嘆いてい

さて。
ここまで書いて、停滞していた。
アップしない日が続く。(といっても2日間)
やはり、人に読んでもらってナンボというブログ、なんだか哀しい。
ウケないお笑い芸人のようだ。
が、スベリに耐えなければ、何も出来ない。

世の中の才能がなく認められない芸術家は、自分では才能があるのに認められないと嘆いている。
芸術家だけでない。
才能を測りにくい。
自分だけでも楽しければ、生き甲斐になってよい。
たとえ悲しくても生き甲斐になってよい。
側から見れば、まるで理解できなくても、自分の糧になればよい。
認められたいなどと、とてつもなく厚かましい。
日本人特有の謙遜とか美徳とかではない。
本人は必死でも、周りとしては、わからんものは、わからんのである。

どこまでは許されるかを計算して、ギリギリまで攻め、尖ったエッジを効かせている、と評される若手タレントがいる。
ユニークな発声、発言の、あのanoちゃん。
時代が後から付いてきたかんじか。
そうではないと思う。
時代はもう進んでいたが、地下で生息していて表に出なかっただけだ。
地上波TVのCMや、NHK紅白歌合戦出演などで一般的に知られ知名度は上がっている。

今の時代は、やたら多様性を認める方向のものが多い。
今まで身を小さくして生きてきた人には生きやすい時代の到来、、、を目指しているようだ。 
それにしても、昭和人間のわたしでさえ隔世の感がある。
明治人間でアタマも身体もちゃんとして生きている人は、現在はほぼいないだろう。
(明治生まれ、最も若くて112歳)

バリバリの戦中派の姑に聞かせてあげたいものだ。
存命でも存命でなくても、聞く耳は持たないだろうけれど。
良きにせよ、悪きにせよ。
  


Posted by fruiokjh at 16:09Comments(0)

2024年03月07日

の分をむんずと掴

ばあちゃん家(わたし宅)での2人。
兄Yは、野球盤ゲームか、プラレール(電車と線路の玩具)で遊びたい、と弟Kに提案。
弟Kは、どっちも「嫌だ」と言う。
「なぜ嫌なのか」と問う兄Y。
「遊びたくないから」と弟K。

「なぜ遊びたくないのか?」と、つっこむ兄Y。
「なぜ、遊びたくないのに遊ばせようとするのか?理由は家居害蟲?」と弟K。
「遊びたいからだ、遊びたくない理由は何だ?」と引き下がらない兄Y。
「ボクが遊びたくないのに、なぜ遊ばないといけないのか?」と弟K。
「ボクが遊びたいからだ。なぜ、遊ばない?」と兄Y。
「遊びたくないからだと言っているやろ、何回、聞くの?」とヒステリックな声の弟K。
「ボクが遊びたいのに、なぜ遊びたくない?」と兄Y。
「ボクが嫌だと言っているのに、なぜ遊びたいの?」と弟K。

「1人では遊べないからだ」と兄Y。
お、雲行きが変わった。兄Y、不利。負けを認めた?
「だからって、なんで遊びたくないボクが遊ばないとあかんの」と弟Kは負けてない日本移居

兄は弟を何かで釣るしかないか?
交換条件などを提示したり、とか。
が、兄Yは、黙ってしまった。

兄Yが認めて諦めたのかと思いきや、2人に同量ずつ、半分に分けて出していたオヤツ(バターサブレ)の弟の分をむんずと掴み、
「遊ばなかったら、Kのオヤツは無し。ボクが全部食べる」と強硬姿勢に出た。
「なんでボクの分を食べるん」と泣き声の弟K。
Yは、口まで持っていきパクリと口を開け、口の前でピタリと手を止めた。
食べる寸前、食べる真似をした。
Yは「KはTVを観たら絶対ダメやからな」と捨て台詞を残し、録画の観られる隣の部屋に移った。

野球盤もプラレールも、うち(おばあちゃんち)でしか出来ないから、兄Yはその遊びにこだわった。
だが、相手がいないと出来ないのは、明らかに不利だ。
弟Kに参加してもらえないと遊べない。
弟Kは、強みがある。
北風政策には乗らない。
2人のやり取りが面白かったので、後で母親(わたしの娘)に経緯を説明すると、
「兄Yはそんな(悪い)ことは、出来ない性格やわ」とのコメント。
なるほど。良い子なのね。

この2人。
社会の縮図のようで観察するのには中々興味深い。
なだめたり、すかしたり、おどしたり、、、
自分がしたいように進めるには、あの手この手が必要だ。
自己欲求、欲望の渦に溺れ、、、ることなく、、、
いまのところは、やりたいことは「オモチャ遊び」だから可愛い迷你倉裝修存倉。  


Posted by fruiokjh at 11:39Comments(0)

2024年03月07日

同じ学舎で学んでいる

わたし、わたし、わたし、と、調子付いているわたし。
小学生一年生の時の、初めてもらった通知表。
担任の先生(女性)からコメントが書かれている。

「おとなしいが、芯はしっかりしている」

わたしは、この先生からのコメントがとても気に入っていて、蝶ブログにも最低1回は書いている漂白牙齒
初めてのお勉強、小学校では、
国語では「さくらが、さいた」だった?
理科では、「菜の花」の色鮮やかな黄色が印象的だった。

幼稚園から小学校にほとんどの園児は持ち上がる。(校外に転校する子もいるが)
2年の時、1クラス増えて2クラスになった。
1クラス分は新しい外から入ってきた生徒だった。
わたしは、幼稚園からそのまま持ち上がったため、クラスメイトは半数は知った顔。
(幼児クラスから保育所が同じで、大半が同じ小学校に入学するようなかんじ)
さらに、中学では、受験で入った生徒でもう1クラス増え、学年は3クラスになった泌尿專科
中学に進学する時、他の中学校に行く生徒もいる。
居残り組のわたしは、昔から知っている生徒が多い。
そして、高校は同じ中学から進学してきた生徒がたくさんいた。
いつも必ず同じ顔が多数いた。
幼稚園からずっと顔ぶれは一緒だが、大概は高校あたりで分かれて行く。
同時に新しい顔に出会うことになる。
わたしは、最初からずーーっと居続けている分、多くの同級生とはかなり長い間、同じ学舎で学んでいる。
小学校の時は、姉の同級生たちと、わたしの同級生たちが、きょうだいというパターンもある。

それはそうと。
今、思えば、わたしは高校時代は、こころが荒んでいた。
目標高校に入れて、緊張の糸が切れていた。
仲良くなる子は、お行儀の良い子ではなかった。
勉強もあまりしない。成績も良くない。
おそらく、「井の中の蛙」現象、頑張って入ったのに、そこでは埋没。
周りは優秀な生徒ばかり(に見える)。
自分への評価が昔ほど良くない。
で、拗ねる。
そういう子が、つるんでいたように思う。
(ちなみに、わたしは、自分が成績が振るわないから拗ねていたわけではない)

その中の一人の不良(っぽい)女子AのボーイフレンドBと、高校の還暦大同窓会でチラと会ったが、激変していた。
あの可愛かったキュートなBは、いずこに?
この目の前にいる、ちびまるこちゃんのおじいちゃんのような元気のない人は誰?
確かに、顔をじーーっと見ると面影らしきものはある。
が、、、変われば変わるものだ。

高校3年の時にAとは同じクラスにもなり、よく一緒に遊んだのだが、直近の同窓会ではほとんど話さなかった。
他にも当時の不良(っぽい)仲間はいたが、その後、どうしているのか知らない牙科專科醫生
わたしは、あの時期は、たんに拗ねていた時代なんだろう。
拗ね拗ね仲間と半世紀後に会っても、やあ、どう?と、会釈するだけで、お互い近寄らない雰囲気。
たぶん、、、すっかり水と油になってしまったのだろう。
  


Posted by fruiokjh at 11:32Comments(0)